創立記念日に寄せて
5月23日は、本校の「創立記念日」です。平成2年4月1日、真岡市立真岡中学校から分離、開校し、本年度34年目を迎えることとなります。開校当時のPTA新聞が貴重な資料として残され、当時の様子が多面的に表現されておりましたので、原文のまま御紹介いたします。
-以下、真岡西中学校PTA新聞「にしき」平成2年7月20日発行より-
西輝が丘を緑の園に -真岡西中地域の期待を担って開校、奈良・平安時代の集落跡-
『西輝が丘』に愛称きまる 1年生 中川恵さん
「西の小高い丘に美しく光り輝いて建っている。大きくて希望をもった学校」という意味を込め考えてくださった名称です。
そねの木は残った
校庭校舎寄りに、数本の株立ちの「そね」が列植されています。この木はもともとこの山にあったもので、工事中は一時仮植され、完成時に改めてこの場所に植えられた木だそうです。他の雑木と共に処分するには惜しい立派な木であり、また、緑の少ない校庭を緑化する第1歩になるよう、計られたものと思われます。まだ、幹には保護のため麻布が巻かれ、葉の茂りも少なく、木かげも強い日差しにたよりなく心細げですが、いつかはたくましく根づき校庭に枝を広げ涼しい木かげを作ってくれることでしょう。その下で、部活動で疲れた子供たちが汗を拭き、友達同士が未来を語り合う楽しい場所を提供してくれることでしょう。
西輝が丘の昔むかし
大昔の人々の住んだところは日当たりの良い高台で、近くに水のある場所と決まっていました。西輝が丘はそれらの条件に合った所と見え、真岡西中建設に先立って行われた発掘調査では、1,200年前頃の住居の跡がたくさん発見されました。正門奥の崖の辺りからは23戸、校舎の建っているところからは18戸、プールのある所には少し大きな住居と倉庫らしい建物跡が各1棟。運動場の所からは発掘されませんでしたが、掘ればもっと数多くの家の跡が見つかることでしょう。1,200年前といえば、奈良から平安時代にかけての頃です。その頃、西輝が丘の集落では多くの人々が暮らし、東側と西側の低いところで稲を作り、江川や鬼怒川で魚を捕っていたのでしょう。
開校当時の、生徒、保護者、地域、そして教職員の深い愛情が随所にあふれたPTA新聞に感銘をうけました。