学校の様子

朝会(講話)


3月5日(月)朝会(講話)
越後長岡藩藩士の小林虎三郎(とらさぶろう)が40才の頃、長岡藩は戊辰戦争に敗れました。藩は、見渡すかぎりの焼け野原となり、飢餓状態に陥りました。それを見かねた長岡藩の支藩である三根山藩が、見舞いとして「百俵の米」を送ってきました。藩士たちは、その米を分配してもらえるものと期待していましたが、虎三郎は、「米を売って、学校を作ろう」と、提案したのです。これに対して藩士たちは大反対をしました。しかし、虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなる。教育にあてれば明日の一万俵、百万俵となる」と諭して、藩士たちを納得させました。
 「米百俵」をもとに「国漢学校」を設立しました。今までの藩校は、士族の子弟のための学校でしたが、能力があれば、町人や農民も入学できました。また、漢学だけでなく、国史・国学・洋学・医学など、たくさんの学問を教えました。その結果、日本海軍大将の山本五十六をはじめ、教育・医学・政治など、日本や世界で活躍する人がたくさん育ちました。学制発布により、国漢学校はなくなりましたが、「米百俵の教え」は、今も阪之上小学校、長岡高校、長岡赤十字病院などに受け継がれています。