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2018年7月の記事一覧
朝会
7月2日(月)
(校長講話)吉田松陰は、1830年、長州で生まれた。6才のとき、藩校明倫館の師範を務める吉田家の跡継ぎとなり、厳しく教育されたので、10才で教壇に立ち、19才で師範になった。21才の時、見聞を広げるために日本各地を旅した。旅の途中、アメリカのペリーが、開国を求めるために、浦賀に現れたことを聞き、「外国に対抗するには自ら外国を見聞し、西洋の進んだ技術を学ぶしかない」と考えた。翌年、ペリーが再来航すると、松陰は弟子とともに黒船に乗り込み、アメリカへの密航を企てたが、応じてはくれなかった。自首した松陰は、長州・萩の野山獄に投獄された。獄に入っても、学問への意欲は旺盛で、無気力な囚人たちを励まそうと、獄中で勉強会を開いた。26才の時、野山獄を出された松陰は、松下村塾を開く。松下村塾は、意欲があれば誰でも学ぶことができた。そこで、「これからの日本をどうするか」などの話し合いが、活発に行われた。29才の時、幕府が日本に不平等な「日米修好通商条約」を締結したことに激怒した。幕府を批判したことで、斬首刑に処されることになった。処刑前日に、松陰は「留魂録」(身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂)を書き、その志は、塾生たちへ広く継承された。
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